弟冨士
浅間神社
歴史
弟冨士浅間神社は今から1120有余年前、平安時代、元号は昌泰3年(898年)に
筑紫の国造の末裔である石井大乗陸則という者が、和銅7年(714年)から
天平勝宝元年(749年)にかけて、33回富士山に登拝し、浅間大社のご分霊の許しを得て
村内の座成山と称する岩上に石井家子孫の道次が氏神としてお祀りしたのが起源と伝えられています。
ところが、翌、延喜元年(901年)6月14日に石井道次の夢にご祭神の「木花佐久夜毘売命」が
「この山は吾住むべき山にあらず、他に遷し換えるべし」とお告げになり遷すべき社地を
考えていたところ、その夜にある山に時ならぬ雪が降り、その事の由を駿河の浅間大社の御本社に
報告したところ「その山には弟冨士と名づけ、その山の頂きに御祭神を祀れ」と、お達しがあり
日野の氏神として祀られることになりました。
なお、降雪地の8合目以上は神域として女人禁制となっていたため
寛文年間(1661〜1673年)に三峰街道傍らの下原の地(現在の荒川中学校付近)に
社殿を建立し、女人参籠所としました。
この参籠所がやがて里宮となり、神楽殿も建立され、明治5年日野村の村社となりました。
その後荒川中学校体育館建設のため昭和41年に山麓の現在地に遷座されました。
そして8合目以上は現在では女人禁制も解禁され多くのハイカー等で賑わっております。
また、「浅間神社神楽」(秩父市指定無形文化財)は徳丸流神楽とも呼ばれ18座伝承されています。
当時、里宮は荒川中学校と隣接しており、村の中心地区でもあったため、当時の総代会はより
静寂な場所への移転を考えていたところ、埼玉国体開催が決まり、秩父地区が山岳会場となることが
決定され、雨天の際の開会式用建物が必要になったことから、行政からも神社移転の要請があり
検討の結果、当地への遷座が決まったのです。
その後、平成9年 遷座30周年記念事業で本殿、拝殿、社務所、神楽殿の屋根改修が行われ
平成29年には遷座50周年記念事業で大鳥居の建立、本殿、拝殿、神楽殿の塗り替えが行われ
現在に至っています。
由来
荒川日野大塚の石井家の氏神として
駿河国一宮浅間大社より、石井家の祖先、石井大乗睦則(筑紫の国の末裔)
が御分霊の許しを得て分社し、祀られました。


大鳥居

社務所

神楽殿

拝殿・本殿

手水舎
盃状穴(はいじょうけつ)の彫られた手水舎(てみずや、ちょうずや)
盃状穴とはペッキングという方法で石や岩に彫られた3~10cmの穴で、盃のような形が特徴。
子孫繁栄を願って、縄文時代から作られていたと考えられており、鎌倉時代には魔除けとして
神社の灯籠や手水舎に彫られることが多くなったと伝えられている。
当社の手水舎は安政5年、氏子より奉納されたもの。
三祭神
主祭神
木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
神話の世界で「絶世の美女」といわれる女神
・神話
火中出産
夫の瓊々杵尊(ににぎのみこと)に一目ぼれされ、結婚し夫婦になったが
初夜で身ごもったことで不貞を疑われたため、産屋(うぶや)に火をつけ、
「あなたの子なら何があっても出産できる。」と、
みごと火中で無事出産し身の潔白を証明したという神話。
「決して不貞はしない」という、女性として、妻として、母親としての強さと
深い愛を感じさせられる有名な話。
ちなみに、この時生まれた三男の火遠理命(ほおりのみこと)の孫が初代天皇である
神武天皇であるといわれています。
相殿神(あいどのかみ)
大山祇神(おおやまづみのかみ)
日本の山の神の総元締め。農業、林業、鉱業、商工業、海運、酒造等
山の神、海の神、武の神としてあがめられています。
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
天孫降臨神話
皇祖が天照大御神
妻 木花之佐久夜毘売命
御神徳
安産・子育て(子宝)、家庭円満(夫婦円満)、火難消除、五穀豊穣
安全登山、厄除、子孫繁栄、商売繁盛、金運、出世、合格と数々の
ご神徳があります。
祭 事
例大祭 4月第二日曜日 神楽、雅楽を奉奏致します。
新嘗祭 11月23日 神楽、雅楽を奉奏致します。
節分祭 2月2日 神楽、神前神楽、雅楽を奉奏致します。
その他の祭事
1月1日 歳旦祭、交通安全祈願祭
3月 第一土曜日 祈年祭
6月 第三日曜日 夏越しの大祓
5月、7月~10月 月次祭
12月 除夜祭
神 職
4名(宮司、禰宜、権禰宜、出仕)